#003 プリシラの家はどこに?

「プリシラの家はどこにあるのか?」という問いに、「カリメロの家の隣」と答える人は多いと思います。実際、二人の家は隣同士という設定はいくつか描かれており、お互いの家の窓から顔を出して話し合うという場面も見られます。

ところが、二人の家は完全に離れているという描かれ方をしている話も少なくありません。たとえば#49の<ワークブックは泥だらけ>は、風邪で学校を休んだプリシラにワークブックを届ける役をカリメロとピーターで争うという話ですが、プリシラ家はカリメロ家の隣ではないという設定のため、争いが生まれるというわけです。ほかにも注意深く見ると、両者の家は離れているというシーンはいくつか登場します。つまりストーリーによって、お互いの家が隣同士だったり離れていたりするのです。

この矛盾はなぜ生じたのでしょう? 考えられるのは、「当初は離れているという設定だったが、のちに隣同士という設定に変えられた」(あるいは逆に、隣同士→分離)というものですが、実際はそういった規則性は見出せません。#24の<宇宙がボク呼んでいる>では隣だったのに、次の#25<ちょっと残念>では離れてしまっており、#35の<あなたのわたしきみのぼく>ではまた隣になっています。その後も、話によって設定はコロコロと変わっています。

もしかすると、制作スタッフによって認識の違いがあったのでしょうか。この設定に深くかかわっているであろうスタッフは脚本家だと思われます。「カリメロ」の脚本家は全部で9人いたようですが、チェックしてみた結果、このメンバーが設定によって両グループに分かれるということはありませんでした。隣同士の脚本を書いた人が、その後逆の設定を書いていたり、一貫性がありません。

となると、両者の家が隣同士か、離れていたかというのは、ストーリーの都合によってそのつど変えられていたと思うしかありません。先に挙げた<ワークブックは泥だらけ>のストーリー展開では離れていたほうが都合がよいし、カリメロがプリシラの家の落ち葉を掃除してあげるという#88の<さようなら落ち葉くん>などは、隣同士だからこそ成立する話です。

スタッフは、細かい設定にはあまりこだわっていなかったのでしょうか? こういうあいまいな設定というのはほかにもあり、たとえばカリメロ家の玄関には通常はドアが付いていませんが、ときたまドアが突然登場します。また、#27の<大人になったら>では自転車に乗っていたカリメロが、#52の<お〜い自転車>では乗れない設定になっていたり、細かく見てゆけばキリがありません。子供向けの番組ということであまりこだわらなかったのかもしれませんが、もう少し一貫性がほしかった気もしますね。


※2014/10/19追補
脚本を書かれた井手隆久様によると、3人で1クール全部を手分けして脚本を書いたが、イタリアの原作者との交渉があったため時間がなく、大雑把な設定の確認のみでみんな一斉に書き初めていたため、設定の細かな部分で一貫性がなくなったとのことです。


2004/4/17
 


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